アフリカ大戦/アフリカの遺跡タンザニアは、二つの国で構成されていることは、プレジデントの項でも少し述べた。タンガニーカ(大陸側)とザンジバル(島)、ザンジバル島は元はアラブの国なのだ。 このザンジバル、結構複雑な歴史を持った島でもある。」 ザンジバルは、かつてとある国の首都でもあったのだ。 オマーン。 オマーンは今でこそアラビア半島南端のなんだかパッとしない国だけど、18世紀から19世紀にかけてオマーンはインド洋を制する大海洋帝国で、アラビア半島のみならず、北は現在の パキスタン西部から南はアフリカ東岸まで広大な地域を支配した歴史がある。 ザンジバルは、10世紀頃からアラブの商人たちが定住してイスラム教を広めていた。 ↑ 世界遺産にも指定されている、キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群。これはザンジバルにあるわけではなく、大陸側にあるんだけれども、これこそかつてのオマーン帝国の遺跡とも言えるかもしれません。 1503年にはインド洋へ進出したポルトガルが占領したが、1698年からオマーン領となり、アフリカ大陸でも現在のソマリア南部からケニヤ、タンザニア沿岸へと領土を広げていった。 ↑ キルワ・キシワニの一部。 1832年にはスルタンのサイード・サイド王が王宮を建設し、首都をザンジバルへ移したのだ。 ↑ 当時ヨーロッパからの侵略者から守るためにアラビア人が建設した要塞の遺跡 まぁ、ここでも侵略者同士の戦いに、アフリカ人が巻き込まれたのだ・・。 当時のザンジバルは喜望峰回りの東西貿易の重要拠点だったほか、黒人奴隷や象牙の輸出港としても栄え、奴隷を使って丁子(グローブ)の栽培も盛んになり、スルタンに大きな富をもたらした。 ↑ 当時、奴隷貿易の発端は、なんとキリスト教伝来と称して、行われていた。 これはアフリカにすでに商業貿易ルートを持っていたイスラムに対抗した形でとられたものらしい。 日本が江戸時代まで鎖国政策をとってきたのは、こうしたキリスト教伝来と証した侵略から国を守るためといわれている。 1856年にサイード・サイド王が死ぬと後継者をめぐって宮廷では内紛が続く。大英帝国の調停というか介入で、サイド王の2人の息子がオマーン本土とザンジバルを分け合うことになり、61年にザンジバルはオマーンから独立した。 こんなところにも大英帝国がちょろちょろ顔を出す。 もう大きなお世話の帝国である。 そんなころ、大陸側のタンガニーカは、ドイツによって侵略されまくっていた。 というわけで、もちろん現地民の抵抗が頻発した。 このヨーロッパ人の侵略に対して、最もはじめに抵抗したのが、ニャムエジ族のミランボだと言われている。 タンガニーカ西部に住むニャムエジ族は、英仏独による東アフリカ征服に先立って東アフリカ内部に浸透してきたアラブ人商人によって大きな衝撃を受けたからだ。 東部バンツー部族の中で最強部族のひとつであったニャムエジ族はザンジバル等に居住していたインド人商人の代理人として隊商として活躍していた。 19世紀にはザイールのカタンガの銅の運搬者として活躍。 だがアラブ人の活動によって一部は奴属化されるものも現れた。 原因としてニャムエジ族の政治的統一の欠損。 ンテミ(村長)の指導下にある首長国家への分裂などがあげられる。 ミランボは1840年ごろ生まれる。ミランボの父は、ンテミの地位。 ミランボは、ニャムエジ族だけにとどまらず、他部族とも同盟を作り、ヨーロッパからの侵略者に対して抵抗を取ったのであった。 そして、その後・・。 1888年にはパンガニの首長アブシリが反乱をおこしてドイツ人を殺害し、いくつかの町を包囲するという事件を起こしていた。 東アフリカのインド洋沿岸部は古くからオマーンをはじめとするイスラム教徒が住み着いて商業を営んでいたがアブシリもその1人であって(ただしザンジバルのスルタンとは敵対的であった)、彼等が伝統的に持っていたキャラバン通商のルートをドイツ人が奪ってしまい、さらに土地まで収奪の危機にさらされたことが今回の反乱の直接の原因であった。 ドイツ本国の宰相ビスマルクは軍人探検家ビスマンを送って反乱の鎮定につとめた。 大英帝国もポルトガルもドイツに協力し、最大時8000の軍勢を集めたアブシリ軍を簡単に撃破した。 ヨーロッパ諸国に侵略される前のアフリカは、イスラム社会によって、『浸透』という形で侵略が行われていたが。 それを嫌った欧州諸国は、キリスト教を侵略の武器に使ったんだ。 アブシリは味方の裏切りによってドイツ軍に逮捕され、89年12月に絞首刑に処せられた。 そしてついに。 1905年、大規模な反乱が勃発した。 マジマジの反乱である。 日本で言う、明治38年のことである。 反乱軍の兵士たちは白人の力を弱めるという「魔法の水(マジ)」を飲んでいたことからこの反乱は「マジマジの反乱」と呼ばれ、瞬く間にドイツ領の南部全域に拡大した。 マジとはスワヒリ語で『水』を意味する。 そして、呪術師がこの地域で雨の担い手として広く信仰されていた蛇神コレロにまつわるものとして、これを身体に塗っていれば弾丸に当たっても死なないというおまじないを水にかけたのだ。 なんか、もう胡散臭さ抜群だけれども。 やってることは旧日本軍の特攻隊とさほど変わりはない。 マジを管理したのはホンゴ(神の使者)と呼ばれる人々で、20以上の部族を反ドイツに結束させた。 反乱開始は7月末、8月15日には県庁をひとつ占領した。しかし反乱軍の装備は貧弱なものであり、例えばンゴニ族の軍勢は5000人のうち200人しか銃を持っておらず、本国から鎮圧軍が到着するとともに機関銃で蹴散らされてしまった。 ゲリラ戦はこの後も2年間に渡って続いたものの、ドイツ軍は抵抗する村の家や畑を焼き払い、そのためにおこった飢饉や徹底的な掃蕩作戦のために10万人あまりの命が失われたという。 抵抗はその後も続き、特に強力だったのは南西部のヘヘ族で、一度は待ち伏せ攻撃でドイツ軍を壊滅させ、自分たち(ヘヘ族)の首都カレンガを12キロの防壁で囲んで徹底抗戦の意志を明らかにした。 1894年、ドイツ総督シェーレがヘヘ族討伐軍をおこし、10月30日にはカレンガを攻め落とした。 ヘヘ族の首長ムクワワはその後4年間もゲリラ戦を続けたが、結局は追いつめられて自殺した。 ・・・・ほかにもアフリカでは、いろんな反乱、戦争がある。 でも、それは一般的に日本人には知られていない。 それは、日本がアフリカから遠いからだと思う。 もっとアフリカが日本に近くなってくれたらとつくづく思う。 遺跡 人類発祥の地といわれている、タンザニア。 セレンゲティ平原と、ンゴロンゴロ火口区のちょうど間に位置するオルドバイ渓谷。 ここで発見された類人猿の骨は、世界最初の人類として、ルーシーと名づけられた。 この史上初の人類は、実はとある偉い学者がちょうちょを追っかけてて偶然発見した事はあまり知られていない。 そんなタンザニアなんだから、もちろん遺跡があったって全然不思議じゃないのだ。 写真はそんな遺跡のもの。 ・ ・・・・。 でもさ、これって今生きている高校生あたりが描いても全然おかしくないよね。 だってさ、たぶんやっていることほとんど進化しちゃいないよ(笑) 人類発祥の地ではあるものの、その後の進化が滞っている、そんな国です。 アフリカにも、そういった遺跡は探すと結構あるんだけれども。 現代の暮らしっぷりと大して差がないものが多くて。 『本当に遺跡なの?』 って感じのものが多いので、あまり脚光を浴びないのです。 まぁ、タンザニア以外のアフリカの国を見ると、結構な遺跡があったりして。 ↑ ジンバブウェにある、グレートジンバブウェ。 いつ、どういった民族が作ったのか、まだ不詳なのです。 そういやぁ、エジプトのピラミッドもそうだったね。 ↑ これはウガンダにあったガンダ族のお墓。 『ウガンダ』はスワヒリ語で『ガンダ族の土地』を表しています。ガンダ族は王国だったので、これは王族のお墓のひとつだと思う。 ↑ 学生のときにエジブト旅行した時の写真。 結構謎が多いかもしれないアフリカ。 そんなところです。 |